So-net無料ブログ作成

2016年7月31日説教

説教タイトル:妻の無言の行い
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ3:1-7

本日の論壇はございません。

2016年7月24日説教

説教タイトル:善を行って苦しみを受ける
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ2:18-25

論壇 聖書と奴隷
 本日の聖書箇所の「召し使い」とは奴隷を意味します。今のわたしたちには、奴隷とはどのような境遇に置かれていたのか本当のところが分からなくなっていますが、新約聖書の時代には奴隷がおり、聖書もしばしば言及しています。
 聖書は、キリストによる救いを「あがない」と表現することがあります。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3:24)の、贖い、贖うとは奴隷を解放するという意味です。贖い主とは、奴隷の身分から解放してくれた者、贖い金とは奴隷を自由な身分に解放するために主人に支払うお金です。
 人の状態を「罪の奴隷」(ロマ6:15以下)と聖書が書くことはよく知られていますが、わたしたちが悲惨な状態にあることを教えるためです。それゆえ、キリストにある救いを、罪の奴隷からの解放という意味で贖いと呼んでいます。
 新約聖書「フィレモンへの手紙」は、パウロが信者である主人フィレモンから逃げてきた奴隷オネシモのために書いた手紙です。「キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」(10,11)、オネシモを主にある兄弟として扱い、解放してもらえないか、自分のもとにおきたいから、と願っているのです。贖い金は自分が払うから(19)とも書いています。
 新共同訳聖書Ⅰコリント7:20以下は、奴隷から自由になる機会があってもある奴隷に留まっているように、と訳しています。口語訳聖書は、その機会があれば自由になりなさいとなっています。自由になる機会があるとき、「それを用いよ」(21)と書いてあり、「それを用いよ」を自由になる機会とせよと理解するか、召された時の奴隷の身分を「用いて」それにとどまれと理解するか、解釈が分れています。わたしは口語訳を支持します。

2016年7月17日説教

説教タイトル:自由な人として生きる
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ2:11-17

論壇 皇帝について
 本日の聖書箇所Ⅰペトロ2:13に、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」とあります。つまり、皇帝の存在は、人の立てた制度として書いています。
 もう1箇所ロマ書13章では、神によって立てられた権威として、皇帝について書いています。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、・・・ 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」。
 食い違った教えにも思えますが、整合性のとれた教理として書かれているのではないことを理解する必要があります。
 皇帝あるいは王は、旧約聖書に出てくる近隣の民族や国にも当たり前に登場しています。すなわち、王制は聖書に起源を持つ制度ではなく、一定の人間社会にあって力をつけた者が人を支配する中からあらわれてきたものです。その点から考えれば人間が作り出したものです。しかも、それらの王は、聖書が教える神などまったく知らず、無関係にふるまうのですから、神が作った制度の中で、神によって立てられたものとして王を位置づけることは当たり前のことではありませんでした。
 ペトロ書は、異教徒の間で立派に生活することを勧める文脈の中で、神と無関係な皇帝や総督であっても服従しなさいと命じることで、主にある生き方を教えることに中心点があります。それゆえ、人間が立てた制度というより一般感覚にもとづく勧めをしていると読むことができます。
 ロマ書では、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ロマ11:36)との原則にかなう書き方です。

2016年7月10日説教

説教タイトル:立派に生活しなさい
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ2:11-17

今週の論壇はございません。

2016年7月3日説教

説教タイトル:あなたがたは神の民となった
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ2:1-10

論壇 選民とは
 今日の聖書箇所に「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(Ⅰペトロ2:9)とあります。この聖句は、キリストを信じて教会に属するものとなり、神の民となったことをいろいろないい方で強調しています。「選ばれた民」とは、一般的に「選民」と呼ばれます。この「選民」ということばには、特別な能力・才能・出生などのゆえの特権・エリート意識をふくむことがあります。
 旧約聖書においては、アブラハムにはじまるイスラエル民族が選民です。しかし、選民の意味は、すぐれたところがあって神に特別に選ばれたというのではなく、逆の意味です。旧約聖書申命記7章6-8節に次のように書かれています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、・・・奴隷の家から救い出されたのである。」
 イスラエルは神にとっての宝の民です。しかし、イスラエルに何かよい点、誇るべき点があったのかと言えば、そのようなものは何もない。逆にどの民よりも貧弱であった。にもかかわらず、神が愛して奴隷の家であったエジプトから救い出しました。この神の一方的な愛ゆえにイスラエルは選び出されたのですから、神への感謝はあっても、自らを誇ることできませんでした。
 キリストの救いにあずかるわたしたちも、誇るものは主を誇れといわれるとおりであり、他の人、まことの神を知らない人より何かすぐれている点があるわけではありません。神の特別な愛が与えられているだけです。