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2016年9月25日説教

説教タイトル:神の羊を牧しなさい
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ5:1-7


論 壇 神学研修所
本日の第五献金は改革派神学研修所のためにささげます。研修所は、1970年にはじまった有志立による神学教育機関であり、教師を目指す教師候補者の神学教育、教師の相互研修、信徒の神学教育を行っています。運営は、年に二回行われる運営委員会が経済その他の全体の運営に責任を持ち、年に6回開く教務連絡会が教務に責任を持っています。運営に必要な資金は、賛助金という自発的献金によりまかなわれています。なお、神学校と同じく、9月に新年度がはじまり 9月12日に2017年度の運営委員会を行いました。会計報告を掲示板に掲示しておきました。昨年度の賛助金は、予算350万円に対し約333万円ささげられました。支出は、①神学生関係、②講師関係費、③活動関係にまとめられており、予算約366万円に対し約311万円でした。現在、神学生がいないため、神学生関係の支出はありませんでした。そのため、奨学基金積立金に一般会計から100万円を支出することができました。研修所の経済は、神学生がいる時には、一般奨学金として1人年間60万円、特別奨学金1人年間60万円、教材費6万円、交通費15万円を予算計上しています。それゆえ、神学生のいないときに奨学金を積み立てておくことが必要です。
東北にも研修所仙台教室があり、年間50万円をこのために支出しています。
現在は正規の神学生はいませんが、日本キリスト教会(新日基)所属細田眞教師が改革派教会に転会するための準備教育を研修所で受けています。
研修所のカリキュラムが掲示板にあります。木曜日の恩寵教室に若手の教師たちが出席して相互研修がさかんに行われています。金曜日には『キリスト教は女性をどう見てきたか』(H.キュンク 新教出版社)を読む講座が9月からはじまりました。

2016年9月18日説教

説教タイトル:身にふりかかる試練
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ4:12-19

論壇 敬老の日を記念して
 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。 ヨハネの手紙一 3章1節

 今年の1月に越智福夫元長老が天に召されました。だいぶ前のことですが、雑談の中、「病気のため8年在学した後、昭和33年に東京に出てきました」と越智長老、わたしが「その年にわたしは生まれました」と口にすると、二人で顔を見合わせて大笑いしました。突然親子ほどの年齢差を感じたことがおかしかったのでした。
 人はそれぞれ神様から与えられた時と場所を生きるのですが、キリストを信じた者は皆神の子であると聖書は教えています。いつか神の子とされるというのではなく、信仰を得たときに、キリストにあって神の子とされます。
 神の子とされることの意味は、身分と特権の二つに整理することができます。身分とは、神の子として事実受入れられていることであり、この身分・地位は決して失うことがありません。
 特権とは、神の子に与えられる特別な恵みです。神と人を愛すること、まことの自由、罪と死からの解放、良心の平安、恐れなく神に近づくこと、キリストに似せて変えられること(聖化)、神の国を受け継ぐことなど、あげていくと切りがありません。
 主の祈りは、わたしたちが神の子であることを確信させます。「天にまします我らの父よ」との最初のことばは、神は父であり、わたしは神の子であることをはっきりと教えます。それゆえ、とても大切な祈りです。
 東京教会にはあらゆる年齢層の方が集い、聖徒の交わりを持っています。特に高齢の方たちの健康が支えられ、神の子としてのよろこびのうちに信仰生活が送れることをお祈りいたします。

2016年9月11日説教

説教タイトル:愛はすべての罪を救う
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ4:7-11

論壇はございません。

2016年9月4日説教

説教タイトル:神にしたがって生きる
聖書箇所:ペトロの手紙Ⅰ4:1-6

論壇 神とともに生きる
 本日の聖書箇所であるⅠペトロ4章6節に、意味の分かりづらい箇所があります。新共同訳聖書は次のようになっています。
 「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは」。この訳は、新共同訳3章19節「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と一致するように訳したためです。すなわち、復活したキリストが死んだ者たちの所に行って救いをもたらすために福音を宣教したというおかしな理解です。
 カトリックのフランシスコ会訳聖書は次のように訳しています。「今、死んでいる者たちにも、かつてキリストの福音がのべ伝えられたのは、かれらが、人の目には、肉において裁きを受けたように見えても、神の目には、霊において生きるためです」。この訳は、信仰を得て死んだ者たちについて書いていると解釈しています。この理解でよいと思います。キリストを信じても死んでしまったではないか、キリストの再臨はどうなったのか、信じても結局は死んだのだから裁かれたということではないのか、という外部の者からの批判を年頭において、死んで裁かれたのではなく、神との関係では永遠の命に生きていると反論する内容です。そのために福音が宣教され、信じる者がおこされたのであり、信者は地上の生涯を終えて葬られたとしても、神のもとで今も永遠の命に生きている、これが福音の約束であると教えているのです。
 この聖句の5節で「申し開きをしなければなりません」とあります。直訳は「計算、精算」をおこなう、です。与えられた人生・生涯についての精算、いわば決算書が神から求められるようなものです。人生は自分のものではなく、神から与えられ、委ねられた時間であるということがキリスト教信仰の基本的理解です。神は救い主イエス・キリストをわたしたちのために遣わし、救いの道を開いてくださいました。キリストの署名入りの決算書を作ってください。