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2016年12月25日説教

説教タイトル:闇を照らす光
聖書箇所 :マタイによる福音書第2章1~12節



論 壇 イエスの誕生 (No,52)
マタイ福音書におけるイエス誕生物語には、東方の博士たちが星の観察によってユダヤの新しい王の誕生を知ってたずねてくることが記されています。
星がみ子の誕生を告げたとは、イエスの誕生が天の星々が喜びの声を上げるほど天地万物にとっての救いともなる大きなできごとであるということです。
東方とは遠い外国から来たということであり、神の民であるユダヤ人ではないということです。それゆえ、旧約聖書によらず、星に導かれてやってきました。この博士たちがイエスの誕生を祝い、幼子にひれ伏したとは、生まれた救い主イエスは、ユダヤ人の救い主ではなく、遠い国のすべての人にとっての救い主であることを示しています。
どこで生まれたかを問う博士たちに、旧約聖書ミカ書5:1を引いてベツレヘムであると教えたことは、旧約聖書の教えと約束の救い主であることを指し示しています。
外国の博士がイエスを伏し拝んだのとは対照的に、旧約聖書を開いてベツレヘムであることを見いだしたユダヤの王がイエス殺害を企てたことは皮肉なことです。このことは、後々、ユダヤ当局がイエスを十字架にかけることと、イエスの救いが異邦人世界に広がっていくことを暗示しています。
もともと近いはずの者がイエス拒否や殺意・殺害におよぶことは、わたしたちへの警告です。神と神の救いに近いといううぬぼれや安心は、神の愛と救いを無にしてしまうことがあります。
また、イエス殺害をはかり、それに失敗するとベツレヘム近郊の2歳以下の男子を殺害したことは、イエスが生まれた世が闇に包まれていることを暗示しています。もともと、「この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)と語られているとおり、罪という闇の中からわたしたちを救うことがイエス誕生の理由です。

2016年12月18日説教

説教タイトル:神、われらと共にいます
聖書箇所:マタイによる福音書1:18-25

論壇 イエス・キリストの民
 マタイ福音書1章には、マリアの妊娠を知った夫ヨセフのとまどいが描かれています。離縁を決意したところ、神は、天使をとおして、ヨセフに秘密を打ち明けました。その内容は、天使ガブリエルがマリアに伝えたことと本質において同じです。聖霊による受胎、子の名はイエス、自分の民を救う者となる。
 神がイエスという名前を決めていたことは、生まれ出る子が特別な意味で神のものであり、神がこの子において救いのわざを行うということを表わしています。
 「イエス」とはもともとヘブル語のヨシュアであり、その意味は、「神は救う」、「神の救い」です。神の救いがこのイエスにおいて実現することを名前そのものがあらわしています。
 「この子は自分の民を罪から救う」との説明が続いています。「自分の民」とは誰を指すのでしょうか。イエスが生まれたとき、ユダヤ人の社会では、ユダヤ人と異邦人という区分がありました。そのような分け方ではなく、自分の民、すなわちイエスの民という新しい区分です。イエスに属し、イエスの恵みと命の中に生きる民ということです。
 先週は、ロシアのプーチン大統領が日本に訪れ、安倍首相との会談を行いました。日本にとっては領土問題が最大の懸案事項ですが、ロシアにとっては領土問題そのものが存在しない立場である、ということが確認されたようにも見えました。領土は国家にとっての死活問題ということなのでしょう。
 聖書はキリストにある救いを「神の国」といいあらわしています。しかし、この神の国には領土がありません。世界中に、イエスを救い主と信じる者がおり、時代、文化、民族、国境を越えて「イエス・キリストの民」がいます。それだけでなく、キリストにあって永遠の命に生きている者にとって、生と死の境界もありません。キリストは復活により、死を無力にしたからです。

2016年12月11日説教

説教タイトル:あなたはどこにいるのか
聖書箇所:創世記3:1-19

論壇 新たな難しい選択
 今年は、イギリス国民投票におけるEU離脱多数、米国大統領選挙におけるトランプ氏勝利、先日の韓国朴槿恵大統領の弾劾開始など、世界全体の進む方向に心配を覚えるできごとが続きました。では、わたしたちは自分の進むべき方向に揺れや迷い、心配なことはないでしょうか。わたしたちも選択を繰り返しながら自分の道を進んでいくのですから、まちがいが無いといえる人はいないのではないでしょうか。
 先週水曜日の祈祷会にて、新約時代に近い古代ローマの平均寿命と、2001年のデータにもとづく日本人の平均寿命とを比較した表を配りました[『古代ローマの生活』(樋脇博敏 角川ソフィア文庫)]。その表は、掲示板に掲示しておきました。
 古代ローマ人の男性の平均寿命は22.8歳、女性は25.0歳。日本人男性の平均寿命は78.08歳、女性は84.93歳でした。10万人の新生児のうち、古代ローマ時代には男性は10歳未満、女性は15歳未満で半数以上、すなわち5万人以上が死んでいました。現代日本においては、50歳まで生きている男性が95,360人、女性は97,488人であり、50歳前に亡くなるのはまれなことのようです。そして、男性は80歳になっても半数以上、女性は85歳になっても6割以上が生存しています。
 イエス様の時代には、子どもが、親が、伴侶が人生の半ばで死ぬことはめずらしいことではありませんでした。それゆえ、生と死の意味は、現代の日本とは違っていたことでしょう。福音の約束である「永遠のいのち」は、真に願わしいことであったはずです。
 長く生きられるようになったことは、医学その他の進歩のおかげですが、死と隣り合わせのような生き方から解放された一方で、どのように生きるか、どのような終り方をするかなど、難しい選択に直面するようになったともいえるのではないでしょうか。

2016年12月4日説教

説教タイトル:光あれ
聖書箇所:創世記1:1-31

論壇 光あれ
 旧約聖書は次のようにはじまっています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
 太陽の創造は第四の日なので、この光は太陽光ではありません。では何なのでしょうか。ものとしての光のことではなく、人生に光が差す、明るい未来、心に希望の火がともる、など象徴的に語られる光として理解することができます。「『光あれ。』こうして光があった」は、創造のみわざが輝かしいものであること、創造される世界が希望の光に満ちたものであることを示しています。
 人は、すべてが造られた後、最後の最後に造られました。それゆえ、人が天地創造にかかわったとか、なにがしか役に立ったということはありません。人は神によって造られたものです。それゆえ、神と人とは、創造者と造られたものすなわち被造物という点でまったく違う存在です。
 しかし、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26)とあるとおり、単なる被造物ではなく、神に似せて造られました。神に似ていることの意味は、神を知ることができることと、神が造ったこの世界を理解し、この世界に働きかけることができるということです。それゆえ、神が直接世界に働きかける必要は無く、人の手にゆだねているかのようにひっこんでいることができるのです。また、人は神の目線で自己を認識し、評価することもできます。これらの能力により、人は神と共に生きることができるのです。
 神と共に生きるとき、世界と自分の人生に希望と期待とを持つことができます。世界は神が造ったよき世界であり、神の計画と輝かしい意味に満ちていることを知るからです。また自分の人生は、自分の力だけがたよりになるのではなく神の恵みに支えられていることを受入れることができるからです。