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2017年6月25日説教

説教タイトル:父の許しがなければ
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:60-71

論壇 義認の教理Ⅰ
 信仰義認の教理によってカトリックからプロテスタントが分離したといえるほど、この教理において両者は激しく対立しました。
 しかし、1999年10月31日、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会とは「義認の教理に関する共同宣言」に調印し、この宣言の内容において一致しました。教文館から、共同宣言本文、公式声明、公式声明への付属文書、またプロテスタント徳前義和とカトリック高柳俊一による解説を入れた『義認の教理に関する共同宣言』(2004年)が出版されました。
 宗教改革500年を前にした和解の試みであり、画期的な合意であるといえます。ただし、相違点がすべて解決したわけではありません。本文は以下の項目からなっています。
 まえがき
 序
 一 聖書における義認のメッセージ
 二 エキュメニカル(教会一致)な問題としての義認の教理
 三 義認に関する共通理解
 四 義認に関する共通理解の解明
  四・1 義認の視点から見た人間の無力さと罪
  四・2 罪の赦しと義とすることとしての義認
  四・3 信仰により、恵みゆえの義認
  四・4 義とされた者が罪人であること
  四・5 律法と福音
  四・6 救いの確かさ
  四・7 義とされた者が行うよい行い
 五 到達された合意の意味
 注
 『義認の教理に関する共同宣言』資料
 公式声明 
 公式声明への付属文書

2017年6月18日説教

説教タイトル:天から降ってきたパン
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:41-59

論壇 大会役員修養会報告
 13日(火)~15日(木)に豊橋にて、全体のテーマを「70周年以降課題検討Ⅰ」とする大会役員修養会が行われました。
 川杉安美先生を委員長とする「70周年以降の課題検討委員会」と議長書記団が全体をリードする形で修養会が進められました。また今後2,3年間、教派全体がこの体制でいくのではないかと思います。
 大きな課題は、①伝道、②教職養成、③教派の制度的な面であることが川杉先生より語られました。
 伝道については、2016年の現住陪餐会員が前年と比較してマイナス69名であることに表れているように、教派全体の教勢が下降気味であることが第一の問題です。四国中会や東北中会の不振が目立つのですが、他の中会と各個教会も基本的には同じであり、まだ一定の教勢があるのでかたちを保っているだけです。牧田吉和教師による「伝道再生の道を探る-地方伝道の視点から」と豊川修司引退教師による「牧師が足りない! 一教会、一人の献身者を」の講演が行われました。
 制度的な面については、数年前から、大会会計制度見直しの議論が続けられています。すべての事業会計を含む会計年度の統一についてと、複式簿記による記帳と財務諸表作成、会計監査の厳格な実施が論点です。ただし、財務委員である中島龍児長老に丸投げしているような状態なので、このままでは何年経っても解決に至らないのではないかと危惧します。書記団が責任を持って実務能力のある者を複数挙げ、チームを組んで教派全体に説明と説得を行うことが必要だと考えます。大会負担金の減額も課題ですが、これも中島長老に頼っています。大会(書記団)が本気で問題解決に当ろうとしているのかが問われているように思います。
 今後の教派形成を、大会と中会のどちらに中心をおいて行っていくのかを明確にして方策を立てることが肝要と考えます。

2017年6月11日説教

説教タイトル:わたしが命のパンである
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:22-40

論壇 宗教改革3
 ルターが主張した「信仰義認」の教理が当時のカトリック教会に与えた衝撃について考えます。
 信仰義認とは、キリストを神のみ子であり唯一の救い主であると信じる信仰により、罪人が天上の主キリストとその功績にあずかり、罪のない義なる者と認められて神に受入れられるということです。信者は、依然として罪を犯す罪人なのですが、同時に義なる者でもあるということです。
 別のいい方をすると、神はみ子をとおして救いのみわざを行い、人は信仰によってこの神に応えるということであり、ここに神と人との命に満ちた交わり、また和解が実現します。もちろん、信仰は聖霊なる神によって恵みとして人に与えられるものです。
 以上が、罪人が救われる方法であるとするなら、地上の教会の役割は何でしょうか。教会はキリストの復活と昇天後に、聖霊降臨によって建てられた救いの機関であるゆえ、罪人の救いは教会において起る、これが公理です。ゆえに、プロテスタントは、福音を宣教することにより、人々をキリスト信仰へと導くことを教会の使命であると考えます。人々が信仰を持つ、そのための教会です。
 カトリックはこれを否定することはありませんでしたが、教会とは、キリストの代理人である教皇をかしらとするカトリック教会だけである。教皇を認めない別の教会(プロテスタント)は異端であり、異端の教会に救いはない、と主張しました。また、イエスの母マリアへの崇敬はキリストの救いにあずかるのに役立つ。聖人崇拝も役立つ、聖遺物も役立つ、巡礼も役立つ。終油なしには救われない。などなど、カトリック教会内のさまざまなものを、救いに役立つと主張しました。プロテスタントは、信仰以外認めません。
 信仰義認の教理は、カトリック教会と信仰を成り立たせている重要なものを無価値とする力を秘めていたのです。

2017年6月4日説教

説教タイトル:永遠の命に生きる
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:22-33

論壇 宗教改革2
 先週の全員協議会では、中島長老の発題により宗教改革について学びました。8月の全員協議会では石田長老が宗教改革について発題する予定です。9月17日には国立教会と合同修養会がありますが、そこではわたしが宗教改革について発題します。
 ルターが当初告発したことは、キリストの救いにあずかるためには、当時さかんに売られていた贖宥状(免罪符)を買っても罪の償いとならず、何の役にも立たないということでした。
 この主張に対するカトリック教会の反撃に応えていく中で、ルターはカトリック教会そのものに反旗を翻すことになります。
 全員協議会の中で、宗教改革前の宗教改革者といわれるジョン・ウィクリフやヤン・フスにより、すでにルターに似た福音主義が主張されていたのではないかとの質問が出ました。聖書翻訳の必要、信徒が聖書を読んで解釈する権利したことや、ローマ・カトリックの教会論に反対したことにおいて、後のプロテスタント的な主張に通じるところはあったのですが、信仰義認という教理的な点においては聞いたことがないと思いました。それで、何冊か確認したのですが、やはり信仰義認という教えについては、ウィクリフたちが先駆者であるということにはならないようです。
 ロマ書1章17節における「神の義」について、当初ルターは罪人を裁く神の義と理解し、神の前での恐れから抜け出せませんでした。しかし、この「神の義」を、キリストを信じる信仰のゆえに罪人を義と認める神のあわれみであると「発見」したことで心の平安をえるにいたりました。いわば信仰義認の発見であり、これを宗教改革的「突破」と呼ぶこともあります。
 この信仰義認は、プロテスタント共通の教理となり、カトリック教会を批判する重要な判断基準ともなったことで、カトリックにとっては妥協できない邪説となりました。