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2017年8月6日説教

説教タイトル:わたしは世の光である
聖書箇所:ヨハネによる福音書8:12-20

論壇 三中会合同修養会報告
 8月1日~3日にかけて、東北・東関東・東部中会による三中会合同夏期修養会が日光鬼怒川温泉にて行われました。三中会合同修養会は、三中会とも改革派教会創立時の旧東部中会に属するとともに、盛岡伝道所の協力に象徴されるように、東日本伝道において協力関係にあるゆえに、三年に一度開催されているものです。東京教会からは、中山奥行、佐藤正八、今井久子、今井献の四名が参加しました。全体の参加者は、約200名。東北中会からの参加者は10名に満たなかったようです。東関東からは約60名の参加でした。
 講演者は千城台教会の市川康則教師、講演題は「聖書的生き方と思考を目指そう!~宗教改革500年を覚えて~」でした。講演内容は、歴史改革派信仰と教会の基礎を築いたとされるカルヴァンの生涯と働きを紹介しながら、聖書的生き方と思考を学ぼうというものでした。
 カルヴァンというと『キリスト教綱要』がすぐに思い起こされると思います。わたしの出席した分団でも、『綱要』の話しが出ましたが、若い頃に教会で輪読した、しかし読み切れなかった、もう一度挑戦したいけれどあの四巻を読むのは、という声が複数ありました。『綱要』(1559年)は今日から見ると古典であり、簡単に読めるものではないので、カルヴァンが書いた『ジュネーブ教会信仰問答』を手はじめに読むのがよいのではないか、信仰問答として考えると373問もあって長すぎるが、カルヴァンの考えを理解する書物として読むと味わいのある一冊といえると話しました。この信仰問答の前に書いた『信仰の手引き』もカルヴァンの考えを直接知るにはよいものです。
 3年前の三中会合同修養会は仙台市内の会場で行いました。このときには、東北中会の信徒が大勢通いで参加して、よい交わりになりました。鬼怒川は東北から見ると遠いのかもしれません。
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2017年7月30日説教

説教タイトル:あなたを罪に定めない
聖書箇所:ヨハネによる福音書8:1-11

論壇 「謙虚な請願」について
 ウ告白31:5に「謙虚な請願」が出てきます。この5節は国家と教会の権限の棲み分けと協力関係を規定するもので、内容は①教会会議は教会的な事柄以外の何事も決定しても、扱ってもならない、②例外は、非常な場合の謙虚な請願と、為政者が求める場合のみ。
 ピューリタン革命といわれるように、教会と連携して議会側が国王軍を退けたのですが、議会はこの規定によって戦友でもある教会の政治的行為を厳しく制限し、政治性を奪いました。
 中会ヤスクニNo.118は、教会と国家の関係において、5節が今も生きているかのように書いていますが、改革派教会と国家は5節の関係に合意がありません。また、教会の自立性・政治性を容認する社会では、自らを縛るこの規定を教会が使う必要はありません。
 改革派教会は、政治的な問題を扱うことも抗議声名の提出も行ってきましたが、この規定に拠るのではありません。国は、憲法第16条「何人も・・・平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」、思想と良心の自由(19条)、結社と表現の自由(21条)により、団体(含教会)の請願も政治行為も保障しています。請願内容に制限もありません。理由は、請願権が団体に本来的にあるというより、団体を構成する個々人に良心の自由、表現の自由が保障されているからです。それゆえ、改革派教会が整備新幹線建設賛成・反対、消費増税賛成・反対、その他あらゆる抗議声名を行う権利も法的に保証されています。
 ただし、教会は、福音宣教を託されているものとして、いかなる政治的行為が今日ふさわしいかを自立的、かつ神学的に判断します。ここに教会らしさと実力がためされているといえます。わたしは、基本的人権の尊重と、非宗教国家という社会制度の中では、より抑制的であることが望ましいと考えますが。
 人権を認める社会は複数教会・宗教を認め、自由を制限する告白31:5を不要にします。よい意味で、5節は使う必要がありません。

2017年7月23日説教

説教タイトル:渇いている人は来なさい
聖書箇所:ヨハネによる福音書7:37-52

論壇 中会ヤスクニ
 7/9に配布された「中会ヤスクニ」に私の名前をあげて批判する文章が載りました。重要な政治問題は宗教の問題として教会が判断し、教会員を指導するべきとの立場を取る著者からの、No.117にわたしが書いた文章への批判です。わたしは、政治的問題は教会員の自由な判断と責任にまかせるべきという立場です。
 今回の批判は筋が悪いと思います。その悪さは以下の点です。
 17世紀に書かれたウ告白原文における教会と国家の関係は、一国一教会を前提として書かれているので、他教派が存在する余地のない、相互依存の関係です。加えて、よりよきキリスト教国家の形成を目標としています。あの時代ですからしかたなし。
 それゆえ、他教派、他宗教、無神論などが共存し、国家の非宗教性を前提とする国(日本も)では、ウ告白に記された教会と国家の一体関係は通用しません。それで、この箇所(23:3)を改訂し、まだ合わず、30周年宣言で自分たちの宣言を作成しました。いくらウ告白であっても教会と国家の関係は普遍性を持ちえません。
 ウ告白における教会と国家の関係は普遍性を欠くとわたしが書いたことを、あの文章は強く非難していますが(5)、両者の関係について普遍性のある規定を作ることがそもそも無理なことです。
聖書時代、宗教改革時代、現代における国家制度はまったく違います。国民主権という考えさえ宗教改革時代にありません。また教会も時代とともに変化します。それゆえ、教会と国家の関係ほど変化の激しいテーマはありません。合法的戦争を記すウ告白23:2、謙虚な請願を記す31:5などは時代と場所の産物です。
 ウ信仰基準を採用するとは、改革派教理の体系として受入れることであり、歴史的制約のある文言をも受入れるわけでないことは繰り返し教えられてきました。
あの文章は、他教派、他宗教、無神論の共存と、非宗教国家という現代社会を考慮せず、ウ告白における教会と国家の関係を考察しているように思えます。

2017年7月16日説教

説教タイトル:公然と語るイエス
聖書箇所:ヨハネによる福音書7:25-36

論壇 信仰義認Ⅳ
 ルーテル世界連盟とカトリック教会が「義認の教理に関する共同宣言」において合意したことの意義について考えます。このことは、宗教改革500年を迎える「思考の枠組」に関係します。
 500年前にカトリック教会から分裂してプロテスタント諸教会が誕生したことを神の摂理と感謝し、各教会・教派が自分たちの立場と伝統を確認する機会とすることも一つの姿勢です。
 「共同宣言」を作成したルーテル世界連盟とカトリック教会は、宗教改革によっておこった西方教会の分裂を、今日から見ると不幸なできごとであるとみなし、関係を改善するために協議し、互いに歩み寄ることを目指しました。その成果が「共同宣言」であり、相違を乗り越える協議は今も継続しています。
 義認の教理において、双方が全面的に一致したわけではなく、相違も残っています。それでも「なお残っている相違は、義認の理解の用語、神学的表現また強調点におけるものであって、受容できるものである。・・・そこに相違があっても、互いに開かれており、基本的諸真理に関する合意を無にするものではない」(共同宣言40)という認識です。分裂の直接の原因といえる義認の教理について、合意を重視するという枠組を実践したことに特別な意義があります。合意点は、論壇No.26に記した四・1~7です。
 合意点より相違点を強調するなら、「共同宣言」作成はどだい無理であり、その考え方がそれまでのカトリックとプロテスタントを支配していたといえます。また、一つの教会・教派を目指すなら相違点が目につきますが、さまざまな協力を行うこと、共同の礼拝と聖餐式、教職の相互承認など、その手前までの関係改善であれば、別の思考の枠組も可能です。これが「共同宣言」作成を可能にしました。
 500年前は互いをゆるしがたい異端と考えましたが、今日はいわば他教派として認めています。それゆえ、対話・交流はキリスト教とはいかなる宗教であるかを考えるよい機会になります。

2017年7月9日説教

説教タイトル:学問をおさめていないのに
聖書箇所:ヨハネによる福音書7:14-24

論壇 信仰義認Ⅲ
 ルーテル世界連盟とカトリック教会は「義認の教理に関する共同宣言」において一致しました。しかし、償いの思想、制度、実践において、両者に大きな違いがあることを先週書きました。この相違により、両者は別の宗教であるようにも見えてきます。
 「義認」という教理用語においても違いがあり、カトリックでは「義化」といいます。
その意味内容も違っています。ルーテル教会における「義認」とは、あたかも裁判の判決において無罪と宣告されるごとく、神によりわたしたちが義なる者とみなされるということです。この義認は、神が一方的にそう判決をくだすということですから、人間の側の自由な努力が入り込む余地はありません。
 カトリック教会における「義化」とは、神の義が与えられることで(義の注入)、生涯にわたり神の義にかなう者に変えられていくことです。プロテスタントが教える義認と聖化の区別をつけず、「義化」としているともいえます。この徐々に変えられていく過程において、人の努力すなわち功績が強く主張されます。
 ルーテル教会にとって、信仰義認は教会が建つか倒れるかを決める最重要の教理であり、「共同宣言」の冒頭には、ルターにとって「第一の主要な条項」、「他のすべてのキリスト教教理に対する指導者にして審判者」といえる教理であると明記されています。宗教改革時、この義認の教理でカトリック教会全体を否定したのですから。
 カトリック教会にとって、義化の教理はいくつかの大切な教理の一つであって、教会の死命を決するというものではありません。
 義認・義化の意味と位置づけは違っていても、両者が激しい憎悪と敵意をもって分裂する原因となった教理なのですから、この教理において一致したこと自体が画期的なことです。依然として違いがあることを互いに認めたうえでの共同宣言です。

2017年7月2日説教

説教タイトル:わたしの時はまだ来ていない
聖書箇所:ヨハネによる福音書7:1-13

論壇 信仰義認Ⅱ
 先週書いたように、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会は「義認の教理に関する共同宣言」において合意しました。
 その結果、かつてトリエント公会議が行ったルーテル派断罪は、この宣言に提示されたルーテル教会の教えにはもはや当てはまらないこと。ルーテル教会信条集におけるカトリック断罪も、この宣言おいて提示されたカトリックの教えには当てはまらないこと。以上のことが確認されました。
 では、両教会が相当程度歩み寄れたのかというと、そう簡単なことではありません。
カトリックにとって、教会は罪の償いのために存在しているのであり、償いの思想と制度こそ重要でした。すなわち、キリストの死が罪から人を救う完全な償いであることを前提としつつ、信者に償いを求めます。洗礼後犯した大罪は、告解の秘蹟によって償わなければならない。小罪があってもミサに参加できるが、大罪は告解による償いを果たさないと参加できない。ミサとは罪を償うためにキリストを奉献する行為であり、このキリスト(パン)にあずかることで小罪がゆるされる。聖人の助け、すなわち功徳にあずかるとは、罪の償いが軽減あるいは免除されること。煉獄とは残っている罪の償いを果たす場所。死者のためのミサとは、煉獄で苦しむ者の償いを軽減・免除するもの。巡礼も償いの行為。あの免罪符も償いを軽減・免除するためのものでした。
 しかし、プロテスタントには、償いの制度がありません。償いはキリストが完全に行ったのであり、信仰によりキリストにあずかることで義とされ、救われると考えるからです。
 信仰「義認」の意味と意義は、プロテスタントとカトリックとでは、大きく異なります。両者とも罪の償いを重んじていながら、重んじ方がまったく違うからです。

2017年6月25日説教

説教タイトル:父の許しがなければ
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:60-71

論壇 義認の教理Ⅰ
 信仰義認の教理によってカトリックからプロテスタントが分離したといえるほど、この教理において両者は激しく対立しました。
 しかし、1999年10月31日、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会とは「義認の教理に関する共同宣言」に調印し、この宣言の内容において一致しました。教文館から、共同宣言本文、公式声明、公式声明への付属文書、またプロテスタント徳前義和とカトリック高柳俊一による解説を入れた『義認の教理に関する共同宣言』(2004年)が出版されました。
 宗教改革500年を前にした和解の試みであり、画期的な合意であるといえます。ただし、相違点がすべて解決したわけではありません。本文は以下の項目からなっています。
 まえがき
 序
 一 聖書における義認のメッセージ
 二 エキュメニカル(教会一致)な問題としての義認の教理
 三 義認に関する共通理解
 四 義認に関する共通理解の解明
  四・1 義認の視点から見た人間の無力さと罪
  四・2 罪の赦しと義とすることとしての義認
  四・3 信仰により、恵みゆえの義認
  四・4 義とされた者が罪人であること
  四・5 律法と福音
  四・6 救いの確かさ
  四・7 義とされた者が行うよい行い
 五 到達された合意の意味
 注
 『義認の教理に関する共同宣言』資料
 公式声明 
 公式声明への付属文書

2017年6月18日説教

説教タイトル:天から降ってきたパン
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:41-59

論壇 大会役員修養会報告
 13日(火)~15日(木)に豊橋にて、全体のテーマを「70周年以降課題検討Ⅰ」とする大会役員修養会が行われました。
 川杉安美先生を委員長とする「70周年以降の課題検討委員会」と議長書記団が全体をリードする形で修養会が進められました。また今後2,3年間、教派全体がこの体制でいくのではないかと思います。
 大きな課題は、①伝道、②教職養成、③教派の制度的な面であることが川杉先生より語られました。
 伝道については、2016年の現住陪餐会員が前年と比較してマイナス69名であることに表れているように、教派全体の教勢が下降気味であることが第一の問題です。四国中会や東北中会の不振が目立つのですが、他の中会と各個教会も基本的には同じであり、まだ一定の教勢があるのでかたちを保っているだけです。牧田吉和教師による「伝道再生の道を探る-地方伝道の視点から」と豊川修司引退教師による「牧師が足りない! 一教会、一人の献身者を」の講演が行われました。
 制度的な面については、数年前から、大会会計制度見直しの議論が続けられています。すべての事業会計を含む会計年度の統一についてと、複式簿記による記帳と財務諸表作成、会計監査の厳格な実施が論点です。ただし、財務委員である中島龍児長老に丸投げしているような状態なので、このままでは何年経っても解決に至らないのではないかと危惧します。書記団が責任を持って実務能力のある者を複数挙げ、チームを組んで教派全体に説明と説得を行うことが必要だと考えます。大会負担金の減額も課題ですが、これも中島長老に頼っています。大会(書記団)が本気で問題解決に当ろうとしているのかが問われているように思います。
 今後の教派形成を、大会と中会のどちらに中心をおいて行っていくのかを明確にして方策を立てることが肝要と考えます。

2017年6月11日説教

説教タイトル:わたしが命のパンである
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:22-40

論壇 宗教改革3
 ルターが主張した「信仰義認」の教理が当時のカトリック教会に与えた衝撃について考えます。
 信仰義認とは、キリストを神のみ子であり唯一の救い主であると信じる信仰により、罪人が天上の主キリストとその功績にあずかり、罪のない義なる者と認められて神に受入れられるということです。信者は、依然として罪を犯す罪人なのですが、同時に義なる者でもあるということです。
 別のいい方をすると、神はみ子をとおして救いのみわざを行い、人は信仰によってこの神に応えるということであり、ここに神と人との命に満ちた交わり、また和解が実現します。もちろん、信仰は聖霊なる神によって恵みとして人に与えられるものです。
 以上が、罪人が救われる方法であるとするなら、地上の教会の役割は何でしょうか。教会はキリストの復活と昇天後に、聖霊降臨によって建てられた救いの機関であるゆえ、罪人の救いは教会において起る、これが公理です。ゆえに、プロテスタントは、福音を宣教することにより、人々をキリスト信仰へと導くことを教会の使命であると考えます。人々が信仰を持つ、そのための教会です。
 カトリックはこれを否定することはありませんでしたが、教会とは、キリストの代理人である教皇をかしらとするカトリック教会だけである。教皇を認めない別の教会(プロテスタント)は異端であり、異端の教会に救いはない、と主張しました。また、イエスの母マリアへの崇敬はキリストの救いにあずかるのに役立つ。聖人崇拝も役立つ、聖遺物も役立つ、巡礼も役立つ。終油なしには救われない。などなど、カトリック教会内のさまざまなものを、救いに役立つと主張しました。プロテスタントは、信仰以外認めません。
 信仰義認の教理は、カトリック教会と信仰を成り立たせている重要なものを無価値とする力を秘めていたのです。

2017年6月4日説教

説教タイトル:永遠の命に生きる
聖書箇所:ヨハネによる福音書6:22-33

論壇 宗教改革2
 先週の全員協議会では、中島長老の発題により宗教改革について学びました。8月の全員協議会では石田長老が宗教改革について発題する予定です。9月17日には国立教会と合同修養会がありますが、そこではわたしが宗教改革について発題します。
 ルターが当初告発したことは、キリストの救いにあずかるためには、当時さかんに売られていた贖宥状(免罪符)を買っても罪の償いとならず、何の役にも立たないということでした。
 この主張に対するカトリック教会の反撃に応えていく中で、ルターはカトリック教会そのものに反旗を翻すことになります。
 全員協議会の中で、宗教改革前の宗教改革者といわれるジョン・ウィクリフやヤン・フスにより、すでにルターに似た福音主義が主張されていたのではないかとの質問が出ました。聖書翻訳の必要、信徒が聖書を読んで解釈する権利したことや、ローマ・カトリックの教会論に反対したことにおいて、後のプロテスタント的な主張に通じるところはあったのですが、信仰義認という教理的な点においては聞いたことがないと思いました。それで、何冊か確認したのですが、やはり信仰義認という教えについては、ウィクリフたちが先駆者であるということにはならないようです。
 ロマ書1章17節における「神の義」について、当初ルターは罪人を裁く神の義と理解し、神の前での恐れから抜け出せませんでした。しかし、この「神の義」を、キリストを信じる信仰のゆえに罪人を義と認める神のあわれみであると「発見」したことで心の平安をえるにいたりました。いわば信仰義認の発見であり、これを宗教改革的「突破」と呼ぶこともあります。
 この信仰義認は、プロテスタント共通の教理となり、カトリック教会を批判する重要な判断基準ともなったことで、カトリックにとっては妥協できない邪説となりました。